ネガティブな話題が多い記事です。気分を害するかもしれませんので、平静を保つことが難しそうと感じる方は閲覧を控えていただくようお願いします。
鬼の仇のように誰かに執拗な暴言を吐くアンチはいるし、逆におかしい人を持ち上げたり過剰に信じる信者がいる。(ここでいう信者は、盲信的なファンなどのこと)
恥ずかしながら、私は自分を客観的に見て、そのどちらにも当てはまります。
「私の場合は」という要素もありますが、おそらく私以外のアンチや信者にも当てはまる考えがあると思うので、「なんでアンチは/信者はあんな理解不能な考えなんだ」という方の参考になるかもしれません。
最初に アンチ行動はしないように気をつけています
誤解されると悲しいので、先に言い訳をします。
アンチ心理を抱く考えは強くありますが、それを言葉に出したりはしないようにしています。基本的にこのブログ内以外で発信(コメントなど)もしません。本人へのリプライやDMなど持っての他で、ネガティブな可能性があると疑う場合にはハッシュタグも避けるようにしているつもりです。
滲み出てしまったな、と自覚できた時は文章の修正や記事の非公開を行っています。もしかすると漏れがあるかもしれないので、それも気づき次第訂正/削除/などの対応をしなければならないと思っています。
信者としての心理
- 欠点を理解した上で気にならない/好き
- 過剰な攻撃を受けていると思う
- アンチが暇人にしか見えない
- ほっといてほしい
欠点を理解した上で気にならない/好き
アンチ視点だと「あんな致命的欠点があるのに、ファンがいるのはなんなんだ」と感じるんですが、好きな対象の場合はそれを知っている上で好きなことが多いから、いくら「おかしい、なんでわからないんだ」と言われても響かない。
過剰な攻撃を受けていると思う
「この人は確かに攻撃される理由があったけど、いくらなんでもやりすぎ」と感じます。
アンチが暇人にしか見えない
アンチは攻撃が趣味の他に楽しめることがない人だと感じるので、揚げ足取りにしか見えず攻撃理由に共感できません。
アンチ側の時は「暇だからじゃなく許せないんだ、なぜ盲信できるんだ」と感じてます。
ほっといてほしい
コーヒー専門店に来て「ここコーヒー臭ぇ!」とキレてるような、よくわからない人に見えます。
わざわざ好きな人が集まる場所に来て嫌いだと主張されても「変な人が来た」としか。
アンチ側の時はその存在が根絶されてほしいので、その店が存在していること自体が許せないだけ。
アンチとしての心理
- あいつには悪いところしかない
- なぜあんな人に味方する奴がいるんだ?
- あいつの存在は私にも害がある
- 攻撃されて当然だと思う
- 極端な例で考えている
- 地獄を見てから地獄に落ちてほしい
悪いところしかない
「誰でも必ず良いところがある。悪いところは良いところに言い換えられる」
就職活動や自己啓発でよく言われることですが、私には良いところが一切見つけられない対象はあります。または、良いところがあったところで悪い部分や内容が大きすぎます。
なぜあんな人に味方する奴がいるんだ?
私の場合、対象に味方がいるのは逆効果です。
対象に味方がいないなら引いてしまうのですが、味方する人がいると「それはおかしい」「なんだこいつら」と攻撃的な心が強くなります。
あいつの存在は私にも害がある
たとえば万引き犯などに私が強い怒りを示したとして、客観的には「お前の店じゃないしお前に関係ないじゃん」という話です。
しかし主観的には書店の万引き額は億を超えているなんて説もあり、適切な支払いがされていれば権利者たちへの報酬が増す、報酬の不足による提供が途絶える可能性もある、品質の向上や低価格化ができる可能性もある、真っ当な支払いをしている人(自分)が本来の費用を負担しているとも言えるなど。
間接的には大きな影響と被害を受けているという思考。客観的には考えすぎ。
攻撃されて当然だと思う
対象が悪いと感じるのに、法的な罰が不足しているように感じる/そもそも罰を受けていないと感じるなど。
私刑(言葉やツイートを含む)を実行する人は、同じ考えを持っているかもしれない。
極端な例で考えている
「罪を許そう」「重い刑は廃止しよう」
そんな感じの言葉を見た時に思い浮かぶのは犯罪史に残るレベルの猟奇殺人など。主張する方が被害にあった時に加害者を許すとしても、それを全体に適用し強要しないでほしい。それは私にとって加害。
地獄を見てから地獄に落ちてほしい
「相手もひどいことを言われたら傷つく心がある人間だよ」
傷ついてほしいんです。
反省が見えない
アンチとしては「悪い点を指摘している」ので、相手が改めたり謝罪したりする様子がなく、飄々とし続けるようだとより「こいつはクズ」という思考が強くなります。
”相手も人間なんだから傷ついてないはずないだろ”みたいな意見も見かけますし、自分がファン側なら思います。アンチ側からだと「じゃあ表に出せよ」「平気な奴がいないとどうして言えるんだ?」「態度を改めないなら同じ事」と感じます。
まとめ
ある時、キリスト教を面白おかしく解説してくれる方々に関する記事を読みました。そこで「怒りは質問」という説が出ていたのが面白くて、一理あると思った。
アンチからすると「なんでお前はそうなんだ?」とイラついてますし、アンチを面白く思わない人もアンチを「なんでわざわざ嫌いな人を見に来るの?暇なの?お前は人のこと言えんの?」とイラついてる。というパターンに当てはまる人は多いと思う。
その問いを相手にぶつけるとケンカになったりする。アンチとファンの罵り合いが発生すると確かに「なんなの?」とか「お前ら〇〇だな」と自分の中の問いが答えになっていて決めつける場面を見かける。
神様は「いくらでも質問をしていい相手」で、それが祈りなんだとか。それによって実在の人間に八つ当たりせずにいられたら確かに有益。
※その方は「自分は神父じゃなくただの1信者で、聖書は人によって解釈が違う」という断りも入れてます。
アンチも信者も、その人なりの考えがあった上で辿り着いた結果だと思います。
気になっていた「あの人たちってなんでああなの?」という疑問がこの記事で少しでも腑に落ちたなら、イライラを少し軽減できるかもしれません。
もしもその一助となれたなら嬉しいです。